文明の災禍

文明の災禍 (新潮新書)

文明の災禍 (新潮新書)

 割と自然派な感じの哲学者が、震災と原発事故についていろいろ考察した本。
 一つの論というよりは、震災から考えられる様々な文明論の萌芽がいっぱい詰まっているような本だった。

 特に考えさせられた部分を二つ紹介する。

○情報、報道の自由について。
 原発事故の後、放射能の情報があふれた。
 しかし、私たちは、放射能という「まだよく分からないもの」に関して、いくら情報があっても判断できなかった。

 近代社会は、「みんなにちゃんと情報を報道して、みんながちゃんと考えれば、妥当な判断ができる」という考え方に従って、情報公開と報道の自由を進めてきた。
 ぼくがずっと課題にしてきたジャーナリズムは、まさにそういう考え方を採る。

 しかし、原発事故とその報道で見えてきたのは、
1:情報が多すぎると、我々は判断できない。一番情報が多かったはずの東電社員ですら、状況の判断ができていなかった。
2:情報を取捨選択すると、その時点でバイアスがかかる。知識人なりメデイアなりのバイアスがかかった情報は、必ず情報操作になる。
 ということだった。

 日常から離れた、専門家の世界のことについて、私たちは情報が多くても、「重要な」情報だけに絞られていても、判断が下せない。ここにおいて、
「可能なかぎりの情報公開が市民社会を発展させていくという近代以降の民衆の時代の定理には、大きな欠陥があるということにはならないだろうか」(P.73)


○「意識」以外の意識について。
 私たちには、知性による「意識」とは別に、「身体と共にある意識」「生命と共にある意識」があるのだと著者は言う。
 それは、「頭では分かっているんだけど……」というような、無意識の領域だ。

 3.11の津波の映像を見て、私たちは「知性と共にある意識」「身体と共にある意識」「生命と共にある意識」の全てに衝撃を受けた。
 その後、情報を集めたりして思考によって癒せたのは、「知性と共にある意識」だけであり、他の二つの意識はまだ衝撃を受けてポカーンとしているのだという。
 とある東北の漁師は、津波の後も海と生きていく覚悟をしている。これは、知性で考えたことではなく、「身体と共にある意識」「生命と共にある意識」が、知性以外の部分で感じ取った感覚なのだという。





 実は、この報道の自由の話と意識の話はつながっていて、情報公開と報道の自由は、「知性と共にある意識」の問題に過ぎない。
 ジャーナリズムは、というかデカルト以来の近代知性は、「知性とともにある意識」を絶対視し、「身体と共にある意識」「生命と共にある意識」を存在しないものとして扱ってきた。
 それによって社会は発展してきたんだけど、それは「身体と共にある意識」「生命と共にある意識」を置き去りにした発展だった。
 そのことが、今回の震災で露わになったと著者は説く。


 これは、「知性」が劣っているという話ではないと思う。
 むしろ、ぼくらの知性が不完全なのだろう。
「知性で扱えないものを前にした時、知性はどうふるまうべきか」
 という、礼儀のような問題なのだと考えている。
 自分の「身体」や「生命」をドライブするために、いかに「知性」を使うか。あるいは、使わないか。
 それを考える上で、「意識以外の意識」という階層の考え方は強い武器になる。

 そして、ぼくの信じてきたジャーナリズムがさらっと否定されてしまった訳だけど、これもジャーナリズムが不完全なのだと思う。
 真のジャーナリズムは「知性」だけでなく、「身体」や「生命」にまで干渉しうる。
 まあ、どうやって実現するのかまだ分からないけど。