論語より陽明学

論語より陽明学 (PHP文庫)

論語より陽明学 (PHP文庫)

読書会の課題図書。

儒教では「『仁』と『礼』、つまり人への思いやりと、礼儀が大事だよ」と説く。
それは人間関係の教えなんだけど、
朱子学では、儒教の教えを宇宙の全存在に応用する。
つまり、『仁』や『礼』は、物質と物質の間の関係にも適用できる、
宇宙共通の「理」であると考えた。

その考えが行き着くのは、権威がピラミッド上に広がる世界観。
天から地へ。
帝から民へ。
中華から辺境へ。

それに異を唱えたのが陽明学で、
「人間が心のままに動いた時、それが理だ」
と主張する。
ピラミッド式の階層ではなく、ひとりひとりの心が理であるという思想。
自由で、反権威主義で、革命的な思想である。
事実、日本では、大塩平八郎や、西郷隆盛陽明学を思想的根拠として反乱を起こしている。


この「人間の心が理である」という思想は面白くて、
根拠はなんなの?と思って読んでも、
「自分の良知に絶対の自信があった」
「人として正しい道を歩んでいるという強い自信があればこそ」
「あくまでも自覚の問題」
などと、書いてあるだけで、心=理という判断基準がよく分からない。
「無根拠な自信」が推奨されている。

これはいかなることか。

思うに、宇宙の法則的な「理」は、人知を超えている。
理解できない理を、どう扱うか。

朱子学の態度は、「よくわからないが、我らは上から降りてくる理に支配されている」
陽明学の態度は、「俺が理だッ!!」

このどちらが理に適った態度なのか分からないが、
個人的には陽明学的態度のほうがやる気出そう。


新島襄が、なんで「20年くらいしか生きていない俺の考え」と「家族及び藩及び日本国」をはかりにかけて、
「そうだ、アメリカ行こう」というブッ飛んだ決断を下せたのかずっと考えていたんだけど、
結局は無根拠な自信な気がする。
というか、自信に根拠を求めると、「俺は天に選ばれた男だ。天の道をゆき、総てを司る……」とかヘンな方向に行ってしまうのかもしれない。
自分を信じることの責任を、自分以外にゆだねてはならない。
あるいは、ゆだねないほうが、自分のパフォーマンスが高まる。
ひょっとしたら、他人に遠慮することで、ぼくらは他人を傷付けてしまうのかもしれない。

というわけで、本書から素敵な警句を1つ紹介。

「君子とは、良心を発揮するだけで満足できる人である。小人とは、打算や見栄で動く者である。だがそれは、自分で自分の心を裏切っていることになる」